生と死を考える会の資料ライブラリー。身近な人を失った悲しみを分かち合い、いのちについて考え行動する開かれた場になる事を目指しています。

資料ライブラリー

講演抄録

超高齢化社会の死生観とターミナルケア

● これからのターミナルケアを考えるにあたって
まず基本となりますのは「死亡急増時代」ということです。「死亡急増時代」というのは年間に亡くなる方の数がこれから非常に増えてくる時代を迎えるということで、縁起でもないと思われる方もいらっしゃると思いますが、これは事実としては確かなことで、『厚生白書』(平成七年版)の「年齢階級別死亡数の推移と予測」によれば、戦後の時期に一旦死亡率が減る時期がありまして、特に乳幼児の死亡がガクンと減って、それから以降横ばいの時代であったわけです。ところが、九〇年代に入った頃から、かなり急激に増加に転じて、二〇・一〇年にかけて急増していく。あらためて死というものが身近になってくる時代になってきていると思います。

もう少し中身を見ますと、とりわけその中で増えているのは、高齢者の死亡です。グラフで見ますと七十五歳以上の後期高齢者の死亡が特に増えています。このような時代の中ではターミナルケアも新しい視点が必要になってきます。

これまでのターミナルケアの議論というのはガンのターミナルケアが中心で、比較的若い三〇代・四〇代・五〇代の方たちのターミナルケアだったのですが、これからは高齢者のターミナルケアということで、長期にわたる介護の延長線上に看取りがあるような、そういう時代にどうしてもなっていくことになると思います。特に生活全般の支援と言いますか、狭い意味の医療に限らない福祉的な支援が必要になってきます。ターミナルケアについても一回り大きな視点が必要です。さらに、医療・福祉にとどまらないで地域社会との関係ですとか、自然との関わりをケアの中でどう位置付けていくかを考えていく必要があります。

 それから、もうひとつこれからのターミナルケアを考える上で大事だと思いますのが、供給者中心の視点から脱却していくことです。供給者というのはサービスの提供者ということで、これまでのターミナルケアは医療関係者が中心だったわけですが、私が思うに、これまでの日本でのターミナルケアは、サービスの提供者中心のものになりがちな傾向が強かったのではないかと思います。その分ターミナルケアというものが医療の問題を中心にやや重点が置かれすぎて論じられてきたと思っております。ターミナルケアというのは決して医療的なサービスにとどまる訳ではないのでありまして、死生観とか生活全般にわたる幅広いもので医療の役割はその中のごく一部に過ぎません。

● ターミナルケアと死生観―日本人にとってのスピリチュアリティ
何よりもターミナルケアにおいて重要なのは死生観ではないかと感じております。今の日本社会を見ると、「死生観の空洞化」が顕著ではないかと思います。死生観というものが揺らいでいるというよりも、無くなってしまっている状況があるのではないかと思います。今、死生観という言葉を何気なく使っておりますが、いうなれば「宇宙や生命全体の中で、個(私)の生や死がどのような意味をもっているか、についての理解(世界観)」が死生観というものになると思います。特に日本社会全般について言えるかと思いますが、ある意味若い世代になるほどその傾向が強くなっているように思います。私も大学で学生に接している中で、こういったテーマに関する関心はかなり強く見られますし、同時に死生観・宗教ということになってきますと公の教育の場では避けてきた傾向が強いだけに、むしろアニメや音楽が死生観にとって大きな役割を果たしているように思います。

 死生観を考えるにあたって、ライフサイクルについて考えたいと思います。人間のライフサイクルの捉えかたには非常に単純化すると二つのイメージに分かれます。一つは直線的と言いますか上昇してその先に死があるというイメージです。これだけだとどうしても老いというのがマイナスと受け取られざるを得ず、まして死というのはその先に落ちていく、全く否定的なイメージです。キリスト教の場合はこの先に救済・再生というのがあります。戦後の日本はどちらかというと進歩・上昇のイメージで来ており、あまり死というものは考えないようにしてきました。

 もうひとつは円環的なイメージです。生まれてから、子供・大人・老人ときて死がある。大きな違いは死というものは元の場所に戻っていく、帰っていくものとして捉えられている点です。全く未知のところに行くというのではなく、帰っていくという感覚がある。老いというのが成熟とか成就とかプラスの価値を持って受け止めることが可能になってくる。また、人生後半期の課題というものがあります。人生の前半はがむしゃらに上昇してきましたが、後半期になるとその先にあるのは最終的には死以外の何者でもないわけで、死を見据えたうえでの自分の人生の意味とか意義付けがどうしても必要になっていく。これがなかなかうまくいかないときに中年クライシスと言ったものが生まれてくる。ある意味では今の日本社会全体がこういった課題に直面しているように思います。これまでは経済成長とか豊かさの追求とかでガーッと猛進してきましたが、もうかつてのように成長していくという時代ではなくなってきました。では、成長に替わる価値をどこに見出していくか、しかし、なお見えていない、これは人の人生の話であるようで日本社会全般に当てはまる話だと思います。

 様々な宗教の形は違えど、「たましいの帰っていく場所」と呼べるものをそれぞれの形で位置付けていると言えるのではないかと思います。非常に単純に言えばキリスト教では直線的な時間のその果てに救済・永遠の命があり、仏教の場合はいまここに永遠の命がある。キリスト教にも永遠の命という言葉が異なる文脈で出てきますが、最終的に見ているものは突き詰めて言えば同じものではないか。仏教の場合は輪廻転生からの離脱、苦に満ちた現実の世界から解脱して永遠の命を得る。キリスト教の場合は直線的な時間の果て(死)に永遠の命がある。時間観というものが、この両者では対照的な意味付けとなっています。最終的に目指しているものは同じであって、そういったものの位置付けの仕方が違う、というふうに言えると思います。

● 日本人の霊性(スピリチュアリティ)
このテーマを考えていくにあたって手がかりになる読み物として『日本的霊性』という本があります。霊性という言葉は普段あまり使わない言葉でありますし、それからスピリチュアリティというのも、これはお聞きになられた方もあるかと思いますが、WHOが健康というものの定義を肉体的・精神的というのに加えてスピリチュアルな面でも充足していることが健康だ、と提案されています。言い換えると、様々な宗教の違いを超えたものと言えるかと思います。

 『日本的霊性』という昭和十九年に出た本ですが、茶者は鈴木大拙さんという人で、禅の思想を欧米に広めた、世界的に有名な仏教学者として知られている人です。この本の結論はクリアです。結論は、日本的霊性というものは鎌倉時代に禅と浄土系思想によって初めて明白に現れて、それが現在にもつながっている。それまでの素朴な万葉の頃のような自然信仰とか、仏教が一部の人々の外来宗教だった時代に比べて、鎌倉時代にこういったものが成立してきた。単純に言えることではありませんが、浄土系の仏教というのは法然とか親鸞とか、非常にキリスト教的な仏教と言われています。特に救済というものについての強い志向ですとか絶対的な他力ですとか、浄土という発想自体がそうですし、念仏というものが祈りにつながっていたりとか。逆に禅とは最も仏教的なもので、その両方が鎌倉時代に成立しているというのは、ある意味ではそれ自体が興味深いことです。

 ここでひとつ大事なことは、よく日本人は無宗教ですとか、宗教的ではない民族であるという言い方がされますが、私はそういった言い方が戦後の産物ではないかという感じがしております。つまり、先ほどから話しておりますように、戦後、経済成長がすべてを覆った時代に、それまでの伝統から切り離されて、「日本人は無宗教である」という言い方がされるようになってきたのであって、日本人はスピリチュアルなものに関心がない世俗的な民族であるというのは誤っていると思います。

 鈴木さんが昭和十九年に『日本的霊性』を書かれたというのは、こういう背景があったそうです。日本は確実に戦争に負けるだろうと彼は思っていて、日本人が世界に発信できるものは何だろうかと考えて、日本の世界に誇れる文化財を伝える使命があると考えて書いたというものですけれども、結局、歴史をたどると、日本はそういう道には行かなかったわけで、経済成長に目標を定めて、伝統からはドンドン離れる方向にいったのです。それは物質的な豊かさをもたらしたというメリットはありましたが、今、豊かさが飽和し、かつ経済成長が峠に差し掛かるなかで、こういったものをどう再発見するかという時代になってきているという感じがしております。

● 「深層の時間」とは
「深層の時間」というのは聞きなれない言葉ですが、主旨としてはこのようなことです。それは、ちょうど海の水が流れているとして、海面のところは水がどんどん流れ去っている。けれども底にいけばいくほどだんだん水が動かなくなっていく。一番底の水は全然動かずに変化しない。それと同じようなことが時間についても言えるのではないか。つまり、私達が時間と呼んでいるのは日常的なカレンダー的なもので、層があってその深いところにはよりゆっくりと流れる時間がある。それを突き詰めていくと不動の永遠につながるものがあるのではないか。先ほどから表現を替えて言っております、「たましいの帰ってゆく場所」、円環的ライフサイクル、生と死、我々はどこから来てどこに行き着くのか、こういったことがすべて深層の時間につながっているのではないか。それは言い換えると、生と死が触れ合う場所です。我々の日常の世界は時間が流れている場所、死はそれを超えて、生者の時間と死者の時間がクロスするところというものではないかと思います。

 これは全く主観的なことではありますが、私から見ますと、ターミナルケアの本質というのはその人にとっての「たましいの帰っていく場所」を見つけ、ともに確かめるという営みではないかと思います。言い換えますと、死というものがただ単に無に帰するということである、ということを人間は絶対に受け入れることはできないと思いますし、それには合理的・論理的根拠があると思います。これは死後の世界があるというようなことを言っているわけではありません。

● これからの経済社会とターミナルケア
これからのターミナルケアを考えるにあたって、私は二つ重要なポイントがあると思っています。それはコミュニティということと自然とのつながりです。コミュニティというのは戦後の日本の場合は、大きなコミュニティが二つあったと思います。それは会社と核家族です。特に男性の場合は会社というのが一生を通じてのコミュニティで、ここで言うコミュニティとは自分がそこに帰属しているという感覚を持つ集団を意味しています。人間はコミュニティなしでは生きていけない生き物です。ところがこれが今急速に崩れている。終身雇用もなくなりリストラが吹き荒れ、核家族も個人に分解してきています。コミュニティというものをどう再構築していくか。在宅ケアもコミュニティなしでは表面的なものになってきます。

 もっと底にあるのは自然との関わりです。去年から自然との関わりを通したケアということで福祉関係者の人と研究会をやっていますが、最近は定年帰農ということも言われるようになって、退職したサラリーマンがもう一度農業に関わってみたりする中で、ひとつの充足感を得たりとか、それがケアとか癒しにつながっている。そうなってくると、ターミナルケアというものも死ぬ直前だけを取り上げているだけでは意味がなく、望ましい老い方・死に方とはどういうことかに広がってこざるを得ないと思います。

 戦後の日本が離陸の時代とすれば、これからは着陸の時代へ、どこに着地点を位置付けていくか、経済の底にあるコミュニティや自然との関わりをどう見つけ出していくか。私はそれを定常型社会と表現していますが、経済成長がゼロになっても、それでも豊かさが十分感じられるような、成長に代わる価値を見出す社会になっていかなくてはならないのではないかと思います。

【広井良典氏プロフィール】
1961年岡山市生まれ。東京大学・同大学院修了後、厚生省を経て1996年より千葉大学法経学部助教授。2000年より当会理事。

医療や社会保障に関する具体的な政策研究から、時間、ケア等の主題をめぐる科学哲学的な考察まで幅広い活動を行っている。著書『ケアを問いなおす―〈深層の時間〉と高齢化社会』『死生観を問いなおす』(ともにちくま新書)ほか多数。

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