生と死を考える会の資料ライブラリー。身近な人を失った悲しみを分かち合い、いのちについて考え行動する開かれた場になる事を目指しています。

資料ライブラリー

講演抄録

在宅死を阻むもの

● 医療よりもケア
私は、今まで在宅医療の仕事を五年ほどやってきて、大体の概数ですが200名ぐらいの患者さんを家で看取ってきました。がんの患者さんばかりではありません。むしろ老衰の患者さんの方が多い。おそらく60%ぐらいは普通の老衰で、20%ぐらいががんの患者さんでしょうか。その他、難病であったり、様々な疾患があります。私に自信がないせいでしょうけれども、私はホスピスという言葉を患者さんや家族に対して使ったことがありません。自分がホスピスをやっているという専門性があると思えないし、ホスピスに対して憧れがある一方で、患者さんにお伝えするには強い言葉でありすぎて、実際にはホスピスライクのようなケアであると認識している次第です。
 在宅医療をやっていると、ホスピスをやっているのか、実はリハビリテーションをやっているのか分からなくなってくることが多々あります。在宅で死を迎えるということは非常に分かりやすいことでありながら、なおかつ逆に難しいことでもあるようで、私なりには、最期まで社会、あるいは自分の生き様を生ききることなのかなと理解をしています。一方で、在宅で医者や看護婦が訪問し、やってくれる行為を在宅医療と言いますが、実際には医療行為が中心にはなりにくいです。むしろケアが中心になろうかと思います。したがって、広い意味でのリハビリテーションであったり、ホスピスであったり、緩和ケアなのか、住宅改造なのか、いろいろアプローチがあり、一見すると判別しにくい渾然一体となったケアではなかろうかと思います。

● 在宅死を支える「地域」
今日のシンポジウムでは、医師の立場から在宅死を迎えるための要件についてお話ししなければならないのですが、これは千差万別あります。人的な側面ってなんだろうとか、あるいは制度的にはどんなことを整備すれば在宅死が可能になるのか、と私なりにつらつらと考えたのですが、一言で言うのは難しいです。ただ、私が一つだけ強く感じているのは、「地域」という言葉です。この「地域」という言葉については、私は非常には印象深いものがありまして、例えば在宅死を経験したことがない地域で、初めて在宅死を迎えるといったときに、我々医療者も患者さんもご家族も大変です。何が大変かと言うと、周りの地域がサポートしてくれません。「なぜ、おばあちゃんがこんな状態になっても家に置いておくのだ」と、周りからは非難にも近いような言葉を言われてしまう。ところが、それなりに在宅死の経験を積んだ地域では様相が変わってきます。地域が在宅死を受け入れるか受け入れないか、在宅死を決めていく大きな要件、一つの文化的な背景と言ってもいいのかもしれません。地域で在宅死の要件が整っていない時は不可能かと言ったらそんなことはありません。本人・ご家族がその方向に向かって行くとき、我々医療スタッフもそれをサポートできると思います。

 医療者が積極的に関わった在宅死は、あまり私にとっては思い出深くありません。従来、私は医療者として夜中に駆けつけたりとかしながらやってきたわけですが、私としては、比較的今は在宅死というものをもう少し軽く考えております。つまり、治療としての医療が関わるものは非常に少なくて、むしろ医療的ケアが関わるべきではないか。いかなる疾病や障害を持っていても、可能な限り普通の生活を営めるように環境を整えたり、支援をしたりする努力のうちの医療的な側面と、例えばケアでなされる場合もあるでしょう、住宅改修でなされる場合もあるでしょう、それら様々な側面が関わって在宅死を支えていくことが大事なのかなと思っています。

 ご存知のようにリハビリテーションというのは、筋力トレーニングをするようなことばかりではなく、その人の障害の再出発を目指すことです。確かに末期のガンの患者さんは非常に病状が進行します。一方で脳血管障害の患者さんについてはある程度一定の時間を設けられる。あるいは難病の患者さんでしたら病状の進行も緩やかなカーブである。痴呆の患者さんなら・・・といろいろ考えると、様々な病気や障害を持ってこれから人が生きていく。その中の一つにガンもあって、全て統一して考えていくときに、ホスピス、リハビリテーション、ノーマリゼーションといろんな言葉で、その側面で捉えるのですが、考えていることは実は皆一つなのではないかと思う次第です。

● 宗教と医療
宗教と今後の医療、あるいは在宅死というものは非常に密接な関係を持っているという風に思います。宗教の素晴らしさを私なりにちょっと感じているのは、「連続性」ということです。実はこの間のお彼岸に家内の実家にある菩提寺に行きました。大きな本堂があって、その前に小さなお堂というか社に近いものがありました。その社は「ポッコリさん」というもので、長患いしないでポッコリ逝くための社だと言うのです。「お年寄りが長患いしないように参ってお祈りしていくのです」という話を聞いて、実はこれから少し我々医療界が考えなくてはいけないのは、檀家制度であったり、あるいは様々な宗教の様々な集まりと接点を持ったり、啓蒙活動の一致をなんらなの形で図っていかなくてはならないのかなと感じているところです。

● 幸せの青い鳥探し
在宅死を支える制度的側面ってなんだろうということで、少し触れますと、医療保険と、去年の四月に施行になった介護保険があります。末期のガンの患者さんを中心とした在宅ホスピスは医療保険の枠組みが強くて、医療者や看護職の訪問は比較的他の疾病に比べると回数が多く行けるようになっています。連日のようにお邪魔することも保険でカバーされるとご理解いただいてよろしいかと思います。ただ医療保険の一つの枠組みは、病気になった人を助けるという飽くまでも社会保障の一部です。一方、在宅でちゃんとしたケアを行なうためには、滞在型医療のシステムが必要ではないかという意見が沢山あります。ただ、医療保険ではそこまでカバーされていないので、100%、僕は在宅死が医療保険でカバーされる時代は来ないのではないかと思っています。全てを医療・介護保険の制度で実現してほしいというのも今後のご時世から考えると、皆で痛みを分かちあうということを踏まえて考えると、医療者の努力と家族の努力、介護者の努力、様々な努力を持ってしないと在宅死というのはうまくいかないのではないかと思っています。  最後に、医療保険における在宅医療はガン末期に限って言えばかなりカバーされています。どのような状況になっても家に帰れることについては制度的には大幅にカバーされている印象を受けますし、昨今は在宅でのホスピスケアに熱心な先生方が非常に増えているので、医師会やいろいろな協会にご相談いただければお手伝いもできようかと思っております。

 最後に、幸せの青い鳥探しというのを医療では行います。自分のガンが治る、自分の親族の痴呆が治る、どこかになにかがあるのではないかという青い鳥探しをするのですが、実はそれはそれぞれの人の中、今の中にあるのではないかというのが私の実感です。

前のページに戻る