生と死を考える会の資料ライブラリー。身近な人を失った悲しみを分かち合い、いのちについて考え行動する開かれた場になる事を目指しています。

資料ライブラリー

講演抄録

ホスピス医から見た、ドラマ『僕の生きる道』

私は横浜甦生病院の小澤です。今日は私の専門であるホスピスの医療を通して、人間の存在、人間存在のスピリチュアリティとは何かということで話しをしたいと思います。私はテレビ
ドラマ『僕の生きる道』を見て強いインパクトを受けました。このドラマを見ているうちに、このドラマを素材にして、日ごろ考えている事をまとまった形で話しをしてみたいという気
持ちがふつふつと湧いてきました。今回約一時間半の時間をいただきまして、私がホスピス医として常日頃直面している「幸せとは何か」、「生きているとは何か」という問題を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

●三つの存在としての人間
私のこれからの説明には哲学的な概念が含まれていますので、予め簡単に説明をします。
それは人間の三つの存在論です。
第一は(人は)関係存在である、人の存在は他者から与えられる、人は関係の中で生きているという事です。
第二は(人は)時間存在である、単に今を生きているのではなくて、過去と未来があってはじめて今が生きられているという事です。例えば未来がない、余命が一年という事は今が生きられないという事になります。
第三は(人は)自律存在、自己決定存在であるという事です。この三つの存在論は「人間の幸せとは何か」、「苦しい時になお生きることの幸せとは何か」を考えるときにとても大切な概念です。今日は命の限られた主人公のドラマを通して、この存在論を検証し、「幸せとは何か」、「もし、苦しんでいる人の前に立ったら、私は何が出来るのか」という事を考えていきます。
苦しんでいる人の前では多くの人は相手を理解、共感したいと考えます。しかし、どんなに気持ちの上で相手の立場に立ったとしても、しょせん私はあなたになり得ないのです。むしろ発想を変えて、私があなたを理解するのではなく、苦しんでいる当のあなたが私を見て「この人は私の苦しみを解ってくれる人だ、耳を傾けて聞いてくれる人だ」と理解する事の方が大切なのです。この傾聴という事はその中に「反復」、「沈黙」、「問いかけ」を含んでおり実際には非常に難しい事です。
さて、ドラマを通して以上の事を考えてみましょう。ドラマを見たことのある人はどのぐらいでしょうか。六十パーセントぐらいですね。見たことのない人のためにドラマの筋書きを紹介し、重要なシーンを映像で再現しながら話しを進めます。
ドラマの主人公は二十八歳になる高校の理科の先生・中村秀雄です。中村先生をスマップの草なぎ剛が演じています。彼は小さいときにはオペラ歌手になりたいと思っていましたが、高校の先生になりました。同僚の秋本みどり先生が好きなのですが、みどり先生は学校の理事長の娘でありまして、交際をアプローチしてもはねつけられていました。

●答えられない問い『なんで私が…』
ある時、中村先生は健康診断の精密検査で胃にスキルスがんがあり、肝臓にも転移して手術もできず、余命が一年と診断されてしまいます。彼はなるべく人との争いはしないで、平凡でもいいからほのぼのとした家庭をつくるというささやかな幸せを将来の目標にして来ました。そんな希望、目標の実現のために、今をつつましく暮らしていたのです。当たり前に明日があると思っていた中村先生がある時突然に余命があと一年と宣告されたのです。ここで中村先生には何が起こるのでしょう。彼は未来を失います。それは今も失う事になるのです。
その時彼に沸き上がる苦しみ、怒りは「何でこのぼくが、今まで何も悪い事をしてこなかったのに、このぼくが何でこんな病気になるのか」という事です。ドラマではこんなシーンです。不良グループにからまれた中村先生が不良グループに向っていき、叫びます。「何でおまえ達みたいな奴ではなくてぼくなんだよ。何で一年なんだよ」
この苦しみを主治医にぶつけます。「ぼくは今までまじめにやってきました。べつに大きな成功を望んだ事はありません。毎日平穏に暮らせればいいのです。大きなトラブルは一度も起さずに来ました。そんなぼくがこんな目に遭うはずがないのです。おかしいと思いませんか?不公平ですよね、先生」私はホスピスにいますので、これに近い問いかけに多く直面します。「何で私が病気になったのですか」という問いは自分の存在を失う時に沸き上がる苦しみを表現するもので、単に精神的な悩みというよりスピリチュアルなもので、この問いに答える事はできないのです。科学が進歩すれば日常の全ての問いに答える事ができると考える科学者もおりますが、実際には答える事のできない問いかけは私たちの日常生活に溢れているのです。中村先生の「なんでぼくが……」という問いに、「あなたのDNAがこれこれの理由で二十八歳でがんを発生させ……」と答えたとしても答えた事になりません。中村先生は納得しないでしょう。答えることのできない問いに無理に答えようとする時、医療者と患者さんの気持ちは開いていく一方です。

●他者の存在が私の存在に意味を与える
ドラマは進みます。中村先生は自暴自棄になり貯金をはたいて豪遊してみますけれど全てが空しく、そしてある時は自殺を試みたりしますが、怪我をするだけで死ぬことができません。どうせ永くない命なのだから、自分の命なのだから、自分で断ってもいいだろうと思うのです。医者や他人の説得や励ましなどは彼の心に響きません。人は存在を失った時に、どうしたら又再びその存在を生きようと思うようになるのでしょうか。ドラマを追ってみます。
病院で新生児を見た中村先生は自分の生まれた時の事を母に聞いてみたいと思い電話をするシーンがあります。
「ぼくが生まれた時、母さん、どんな気持ちがした」母は答えます。「おまえが生まれた時、もう自分は死んでもいいと思うほどうれしかった」 これを聞いて中村先生は変わります。
自分は母の愛されている大切な子供なのだ、自分一人で存在しているのではないのだと理解するのです。これは人間の関係存在としてのあり方です。お母さんの存在が自分は最後まで頑張って生きようと思う理由になったという事です。ここからドラマの本当の意味でのスタートです。中村先生の生き方が変わります。今までは人と争う事はしないで、波風の立たない、平凡な生き方をしようと考えていましたが、それが変わります。本当の自分の生き方をしよう、つまり自分は教師である、生徒にいい教師でありたいと強く意識するようになります。それも明日がないという非日常の中で、今日を一生懸命に生きる、今日できる事は明日ではなくて今日やろうとします。ドラマではこんなシーンにそれが現われています。女生徒の妊娠騒動を引き起こした、医者を希望している成績優秀な生徒(PTA会長の息子)が親に知られたら困るとあたふたして、中村先生にお金で解決できるはずだと言うのですが、彼は激しく叱責します。それを聞いたPTA会長の母親が学校にねじ込んで来ます。ことなかれ主義の教頭の詰問に対して、彼は激しく言い返します。
「ぼくは間違っていません。何のケアもせずに性交渉をして、妊娠したら中絶すれば済むと安易に考えている生徒に、それは間違っていると指導して何がいけないのですか。間違っていると指導してあげるのが教師の勤めではないのですか。命にかかわる大切な事を指導するより、進学率を上げる教師の方が正しいと言うのなら、ぼくは教師を続ける気はありません」どうですか?ここまで言い切れる教師はなかなかいませんね。今まで人と争う事を避けていた中村先生がこのように変わったのです。 病気を知り、本当の自分とは何かを知り、遠い未来はないけれど今を一生懸命に生きようとした時に、人は生きる目標、希望を持ちます。
強い生き方ができます。私はホスピスでも経験しました。生きている意味を見つけた人は、たとえ体力が衰えたとしても気力は充実し、目は輝きます。
このような中村先生を見て同僚のみどり先生は中村先生を好きになってしまいます。みどり先生は中村先生に好きだ、結婚をして欲しいと告白します。以前からみどり先生が好きで結婚したいと思っていたのですが、中村先生は自分が治療不可能のがんであり、自分には残された時間が無いからみどり先生と一緒になれないと伝えなければならず葛藤します。ある時一大決心をしてみどり先生に言おうとします。「話しがあります」と切り出すのですが、その後が続きません。長い沈黙が続きます。その沈黙にみどり先生が耐えきれなくなって、自分も同じだとか、今までで一番悲しかったことは母とさよならも言えず別れた事で、二度と大事な人と死に別れたくないなどと言ってしまいます。つまり傾聴できないのです。傾聴には沈黙が不可欠で、とても難しいことだという事がよく表現されています。中村先生はますます病気の事を言い出しづらくなりますがやっとの思いで、自分ががんであり、あと十ヶ月の命と言われているので結婚できないとみどり先生に告白します。

●死に行く人に何をしてあげられるか
みどり先生は病気のことを薄々気づいていましたが、愛している本人からの告白にショックを受けます。みどり先生は悩みますが、やはり中村先生と一緒にいたいと思う気持ちが芽生えてきます。そして母が突然死んだ時の事を父に尋ねてみます。「お父さん、お母さんがこんなに早く死んでしまうとは思わなかったでしょう?死ぬと解っていたらお母さんに何をして上げたかった?」父は答えます。「死ぬと解っていたら特別の事というより当たり前の事をしてあげたかった。例えば作ってくれた料理がおいしかったら、笑顔でおいしいと言って上げるとか……」このシーンは私の好きな所です。死に行く人に対して何をして上げられるかという事の答えになっているからです。特別の旅行とか何かではなく、当たり前の事、普段の事を心を込めてやってあげる事が何より大切です。みどり先生は主治医に会いに行きます。
みどり先生「彼はどんな気持ちで居るのでしょうか?」
主治医「それは中村さんにしか解りません、彼の苦しみ、痛みをあなたが理解しようとしてもそれは無理なのです。あなたには解りません」 みどり先生「先生、私にできることは何ですか?」主治医「彼の話し相手になってください。彼が辛いときに辛いと言える話し相手になってください」
これも重要なシーンです。誰でもが話し相手になれるかというとそうではありません。苦しんでいる人はそれを解ってくれると思える人にだけ苦しいと話すのです。その人が人間として理解者、共感者であると思われる必要があります。その時、信頼、共感、傾聴という関係が成立するのです。職業、資格によって選ばれるのではありません。 考え悩んだ末にみどり先生は結婚して中村先生の話し相手になりたいと再度申し出るのですが、中村先生は首を縦に振りません。それは何故でしょうか。中村先生にとっては好きなみどり先生に、病気の世話をさせることによって苦しみを与え、みどり先生が苦しむのを見る事が辛いからです。
みどり先生には幸せになって欲しい、苦しんで欲しくないから結婚できないと考えるのです。

●甘え頼られることで得られる幸せ
ドラマは進みます。ある時中村先生は地方に独りで住んでいる母の所に行き、死んだ父のことについて尋ねます。「母さん、父さんと結婚して幸せだった?」 母は答えます。「どうかね、父さんは口うるさい人で、世話のやける人だったから、でも気の小さい人で、甘えていたんだね、秀雄もそうなるのかね」 中村先生「ぼくは人に世話をかけたり、迷惑なんてかけないよ」母は少し違うと思ったのでしょう「迷惑?」あとで母からの手紙にはこのように書かれていました。「誰かに甘えられたり、頼られたりすることで幸せになる事もあるのだからね」この母の一言で彼はみどり先生との結婚を決心し、みどり先生に言います。
「ぼくは自分の運命を受け入れたと言いましたけれど、やはり恐いです。これから先もっと辛くなったり、苦しくなったりするかもしれません。みどり先生、これからずっとぼくの所にいてくれませんか?」 残酷な事ですが、母に自分の病気の事を言わねばなりません。みどり先生がそばにいてくれて、やっと言う事ができました。「母さん、ぼくは先に父さんの所に行く事になりそうだ、母さんが父さんと結婚して幸せだったと言っていたと伝えるよ」。
彼はひとりだったら母に自分が母より先に死ぬなんて言えなかったでしょう。
みどり先生も変わります。みどり先生は父との話し合いの中で、自分の存在理由が今になってはっきり解ったと言います。こんなセリフです。「私はこの家に生まれて幸せだった、ずっと幸せに生きてきた。でも、私は何のために生まれてきたのだろうかと考えたとき、一度もその答えが見つかった事がなかった。しかし今は違う。生まれて初めて自分の生きる理由を見つけたの、私はいま中村先生と一緒にいるために生きているの、結婚して、彼を支えて、そして彼を見送るために生きているの」これほどリアルに人間の存在理由つまり関係存在を語るセリフはあまり見ません。

●眼に見えなくても存在し続ける
二人は結婚します。中村先生は教師として一層学習指導に励みます。それだけでなく、みどり先生のアドバイスによって、生徒の合唱団の指導にも力を注ぎ、コンクールの地区予選通過という目標さえ持つようになります。それは音楽によって辛いことを忘れる事ができた彼の少年の時の記憶があったからです。彼は生徒の前で淡々とこう言います。
「ぼくが限られた命だという事は事実です、でもぼくは残りの人生をしっかり生きるだけです。目標だってあります」 しかし中村先生の病気は進み、コンクールの決勝直前にステージで倒れて、入院し、出血が激しく、もう退院できない状態になってしまいます。
ここで、自分がもうすぐ死ぬと言うことが明らかになった時に、中村先生とみどり先生との病院の中で交わされた会話がどんなものなのかをドラマから紹介しましょう。
「みどりさん、ぼくのことを忘れないでくださいね。でもぼくに縛られないで下さいね」「はい、解っていますから。私はちゃんと生きていきます。でも、どうしても秀雄さんに会いたくなった時に私はどうしたら良いのだろうう?」
「会いに行きますよ」
「え?」
「もしどうしても会いたくなったらぼくがみどりさんにプロポーズした場所、大きな木の下に来てください。必ず会いに行きますから」
「はい」
このシーンはとても大切なメッセージを含んでいます。たとえ眼に見えない存在になったとしても、再び会えるというきずなができている時にはその人との関係性は生きている、その人は存在し続ける事ができる。見える、手に触れられる存在だけが存在のすべてではないということを示しているのです。
卒業式を待たずに中村先生は逝ってしまいます。ドラマのラストシーンは五年後、みどり先生が大きな木の下に来て、中村先生に学園の事を語りかける場面でした。

●安易なホスピス神話を排除する
ドラマはここで終わりですが、私はこのように終わりたくないのです。私は中村先生が「死ぬことは恐ろしくありません」と言うシーンの次に、みどり先生に抱き付いて「死にたくない。死にたくないよ。ぼくはもっと生きたい」と泣くシーンを持ってきたいのです。
このドラマのテーマは後悔しない「良い死」ということですが、私は個人的には「良い死」という考えに異存があります。この点についてはホスピスを含めてきれいな話しが多すぎるのです。最後に何か作品を成し遂げ、にっこりと死ぬなどという事は現実には多くないのです。現実は死にゆく人は「死にたくない。まだ死にたくない」と訴えます。このように訴えている人の前で、私たちは何ができるかという事も、もっとシビアに考えるべきです。ホスピスは他の病院に比べて患者さんに喜んでもらうためのサービスをさまざま行なっています。
酒を飲む事も、猫に会いたければ会う事も許されます。しかし「死にたくない。来年の春まで生かしてください」と言う人がホスピスに求めている事はそんな事ではありません。そのような人に私たちは何ができるでしょうか? それは何もできない一人の人間としてその人の前に存在し続け、その人の訴えを聴き続ける事だけです。このことを抜きに上っ面だけを見て、ホスピスは素晴らしいと考えてはいけません。わたしたちにその時求められているのは生と死の本当の意味、そして人間の根源的な存在論を一人の人間として考え直すことなのです。
普段、私は医療者として、役に立つ存在として病人の前に存在する事ができます。しかし「死にたくない」と言う人の前では私は役に立つ、力を持った存在者として存在する事はできません。そのような人の前に存在し続ける、居続ける事は家族、医療者にとって、とても辛い事です。並たいていな困難ではありません。そこに居続ける事ができる強さは能力、資格によって得られる強さではなく、その人そのものの存在の強さであり、それは自分の力ではなく、関係存在によって与えられるのです。
私の場合は次の四つの関係によって、私の存在を支えられ、強められ、そしてホスピスに留まって仕事を続ける事ができるのです。
その四つとは「家族と犬」、「共にいる多くの同僚」、「今までに会った患者や家族」、「信仰を支えてくれる大いなる者」です。
ご静聴ありがとうございました。
       (二〇〇三年四月一八日 講演会より 抄録作成 広報委員・生稲 進)

前のページに戻る