生と死を考える会の資料ライブラリー。身近な人を失った悲しみを分かち合い、いのちについて考え行動する開かれた場になる事を目指しています。

資料ライブラリー

講演抄録

イエスの死が現代社会に示唆すること

●ソクラテスからイエスへ
少し風呂敷きを広げすぎたようですが、先月と今月の二回の講演の中で、西欧文明の二大源流にかかわることとして、私はソクラテスの死とイエスの死というテーマを選び、前回はソクラテスの死と思想に焦点を当てお話しました。ソクラテスの死後、彼の思想は弟子のプラトンそしてアリストテレスへと引き継がれて、西洋哲学の一大系譜を作るのです。
さてもう一方、キリスト教も西洋の歴史およびその後の人類の歴史に非常に大きな影響を与えました。これまでは私もキリスト教徒の端くれですので、イエスの死のほうがソクラテスの死より親しみやすい、分かりやすいと思っていましたが、実はそうではなくかえってイエスの死のほうが難しいと思うようになりました。というのも、私たちはイエスの死については、聖書とりわけ福音書を基本的な資料として扱いますが、福音書はキリスト教信仰の立場から書かれていますから、ある意味で特殊な内容を持っています。つまりそれは現代の人々がイメージする歴史的記録とは意図も内容も違います。ですからそれを単なる客観的資料としてだけ扱うのは難しいのです。私の話の中でも信仰という観点から見られたイエスの姿が出てくると思いますが、皆さんには総合的に判断していただき、また疑問・批判をも受けたいと思います。しかし今日は、キリスト教の信仰から見たイエスということより、現代社会の現実から見て、聖書におけるイエスの死は何を示唆するものかという視点から話しをしたいと思います。

●苦しみのイエスと「この人を見よ」
イエスが裁判を受けた時の裁判官はピラトです。彼はローマ帝国の植民地イスラエルの総督でローマの軍人でした。植民地であるイスラエルには犯罪者を死刑にする権限がなかったので、イエスを迫害したユダヤ人はその権限を有する総督ピラトにイエスを渡したのです。ピラトはユダヤ教とかイエスについては興味も関心もなかったし、また見たところイエスが死刑に価する男とは思えなかったので、自分の権限で死刑にしたくなかったようです。しかしユダヤ人たちの要求がとても強く、裁判が進むにつれて死刑にせざるをえなくなりました。ピラトは、イエスにいばらの冠をかぶせ、赤いマントを着せて人々の前に引き出して「エッチェ・ホモ」(「見よ、この人を」)と言ったと書かれています。それはおそらく「お前達ユダヤ人が死刑にするよう要求している男はこんなにみすぼらしい男だぞ、こんな男を死刑にしてどうするのだ」という意味だったのでしょう(ヨハネ福音書十八・二八—十九・二二参照)。
このピラトの言葉を後にキリスト教の神学者は「見よ、これが人間だ」という意味に解釈しました。つまり受難のイエスの中にこそ「人間」が現れている、人間は苦しむものである、そしてイエスとはそういうものになりきった存在だ、とも解釈したのです。さらに神学的には、イエスの受難を通して、神が苦しむ人間になった、十字架にかかった者になったということ、だからまた、このイエスの中に「神が何であるか」、「人間が何であるか」についての新しい考えが示されている、と考えるようになりました。

●現代世界の特徴から
イエスはどんな人間だったのか、そしてイエスの存在、イエスの死が現代社会に何を示唆するのかを考察するに先だって、私たちの住んでいる今の世界と社会の特徴を見てみましょう。今日では米ソ冷戦構造がなくなり、代わってアメリカだけが一極的な超大国になり、自らは決して認めないでしょうが、明らかに帝国主義といってもいいほどの行動をしています。アフガニスタン、イラクに対する戦争行為は、9・11のテロへの報復としては明らかにバランスの欠いたものです。特にイラクに対する軍事進攻は国連決議も無く、大量破壊兵器の存在もあやしいものです。国際政治学の初歩的観点から見ても問題が多いのです。今明らかにアメリカは自由主義というより全体主義的傾向に動いていると多くの政治学者が指摘しています。アメリカの持つ価値観が絶対だという考え、つまり独善主義が強くなっています。それは自分だけが正しいとする政治的・経済的エゴイズムです。もう一つは原理主義的・宗教的エゴイズムが各地で増長しています。テロを行なう側です。
タリバーン、アルカーイダ、ビンラディンなどを生んだ要因の一つはアメリカのエゴイズムです。しかし、イスラム教の教えからも逸脱したような宗教的原理主義が目立ちます。たとえ、アメリカが問題の根にあるとして、ツインタワーの中にいた無実の人々、飛行機に乗っていた人々を殺すことが許されるとはいえません。
この種のエゴイズムはアメリカやイスラム原理主義者だけではありません。宗教のエゴイズムはイスラム教にもキリスト教にも、昔も今もあります。エゴイズムとは後でも触れますが、罪の典型です。自分だけは悪くない。悪いことを自分のせいではなくもっぱら誰か他の人、国、社会のせいであるとすることです。イエスを殺したのも宗教的エゴイズムだったといえます。すなわちユダヤ教の祭司、律法学者など指導層はそれまでの宗教の理解に拘泥して、イエスのもたらした「罪人に近づくいつくしみ深い父」という新しい神理解を抹殺しようとしたのです。ローマ総督は利用されただけです。イエスはだから当時の宗教家達の「神の名によって」殺されました。どの時代でも宗教は恐ろしい要素を持っています。
現代のアメリカのエゴイズムを支えている思想的背景はネオコンと言われる「新保守主義」です。原理主義的キリスト教とアメリカ的民主主義が結合したものです。それを普遍的なもの絶対なものとして世界中に輸出していますが、これは植民地主義の過ちから学んでいないということです。

●イエスの生涯と「個人」の尊厳の思想
イエスの歴史的背景は今でも確定することは難しいのです。まずイエスには謎の出生物語があります。成人して福音宣教の活動を開始するや故郷を追われ、弟子たちを二年半ほど育成しながらも、最後にはその弟子たちにも裏切られ、ユダヤ教の大祭司から神を冒涜するものとしてローマに売られ、死刑にされました。ユダヤ教の教条主義的エゴイズムとローマの無責任(イスラエルは当時ローマの重要な植民地であり、支配を円滑にするためには住民やユダヤ教の祭司の要求に迎合して一人の男を死刑にしても問題ないと考えた)によって殺されたことは確かでしょう。
さてキリスト教は単に神を信じる宗教ではありません。何を信じるのでしょうか。それは人間を信じているのです。神を信じるのが宗教だとすれば、キリスト教だけでなく、イスラム教、神道などいろいろあります。キリスト教の独自性の一つは、人間を信じていることです。
キリスト教が明らかにしたのは人間の、それも「個人」の価値なのです。
いくら神を信じていても、その名によって人間を殺す事さえできるのです。歴史をみるとその例はエジプト、メソポタミアをはじめ世界中で見られました。「神さま、神さま」と言う人でも人間を大切にしない人はキリスト教徒ではないでしょう。聖書にも「人間を愛する人は神を知っている」とあります。
イエスは「神にのろわれた人だ」と人々に指をさされるような人間の一人一人を大切にしました。一人一人の人間を徹底的に大切にするという考えは、イエスによって具現され、徐々に西洋の価値観の中心になったものです。個人の尊厳とか人権の思想は政治的には近代ヨーロッパに生まれたと言われていますが、その淵源は聖書の人間像にあるのです。
ギリシア思想の人間理解も大変深いものですが、それは「人間の」本質、つまり「人間とは何であるか」という普遍的本性を突き詰めたからです。しかし「個人は誰であるか」というところまでは至っていませんでした。これに対して福音書の神は、いなくなった一人のためには、丈夫な九九人を置いてまでも探しに行くのです(ルカ福音書十五・四—七)。

●「教え」より「存在」の重要性
ギリシア思想とキリスト教の違いについてはもう一つ大きな事があります。それはソクラテスの死とイエスの死がもった意味の違いに現れています。ソクラテス個人の死とか、個人の存在はそれ自体のちの哲学において考察のテーマになっていません。いのちを賭けてまで大切にした「ソクラテスの思想」の方が大切です。
イエスの場合は違います。もちろんイエスの教えとか思想も大切にされましたが、それよりイエスの存在のあり方、死に至るまで自分を捧げたその存在が大切にされてきました。そのことはキリスト教の「信仰宣言」(クレド)を見れば分かります。信仰宣言では「天地の創造主、全能の神を信じます」についで、「おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて死んで葬られ、三日後に復活したイエス・キリストを信じます」と続きます。つまり生まれて、死に到るイエスを信じるのであり、不思議なことにイエスの教えの内容が信仰宣言に入っていないのです。イエスは身体を尽くして、存在を尽くして死にまで行ったということが重要なのです。

●受難を受け入れる難しさと現実
ところで「受難」ということはイエスの弟子たちにとっても受け入れることが困難なことでした。イエスがただものではないと分かって弟子のペトロが、イエスに対して「あなたは神の子、メシア(救い主)です」と信仰告白するところがあります。イエスはそれを否定はせず、ペトロに「あなたは幸いだ」と返事をします。「その時から」です。イエスは「わたしはエルサレムに行って、苦しみを受けて殺され、三日後に復活する」といいます。これを聞いてペトロは「とんでもないことです、そんな事がありませんように」とイエスにいいます。
ペトロにとって「メシア」は我々を救う力のある全能なる方であり、苦しみを受けて殺されるなどということは、思いもよらない事でした。それに対してイエスはペトロを叱って、「サタン引き下がれ。おまえは私の邪魔をする者だ。あなたの考えは人間の考えであり神のお考えではない」と非常に厳しくとがめます。あなたが神の子だと信じるこのわたしは受難に会い、殺され、復活するのだ、そしてそれはあなたが思うように禍いではなく、恵みである、と言いたかったのでしょう(マタイ福音書十六・一三—二三)。
常識からしても、そして弟子にとっても、救い主たるべきものが苦しみを受けるのは「禍い」ですが、イエスはそうは考えないのです。イエスの考えではメシアであるということと、苦しみを受けるということと、恵みがあるということは、神の次元ではつながっているのだと。
こうした考えは、常識とはまったく違います。これは強烈な考えで、ペトロはついて行けません。だからペテロは最後になってイエスを裏切ったのでしょう。ついて行くのは今でも難しいことです。
しかし皆さんの中にはすでに気づいている方がいらっしゃると思います。イエスの教えでは、人間というものは、メシアといわれるほどの人間でも苦しむものであるということ。苦しみから逃げることはできないけれど、それは必ずしも禍いとばかりは言えない。苦しみのまっただなかに神がいるということを人間は信じることが出来る、そしてそれは恵みなのだと。
イエスの十字架はそれを示しているのではないか。
これは確かに難しいことです。イエスは何度となく弟子達に分からせようとしましたが、弟子たちには難しいことでした。むしろイエスがメシアなら、ローマや支配者を追い出して、自分たちの王国を作ってくれる、イエスに従っていけば今に何か良いことがあるだろう、イエスが自分を高いポストに就かせてくれるにちがいないと考えていたのです。それに対してイエスはいいます。「人が人の上に立って支配する事は神なき世のことだ、わたしの国ではその反対である。偉い人は人に仕える者だ、私は仕えるために来た」と。でも弟子たちには
ちんぷんかんぷんでした。そのことが分かったのは後になってからでした。
イエスの受難、十字架に架かって殺されたということはユダヤ教の立場から言えば、神にのろわれたものになったと言う事です。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(旧約聖書『申命記』二一・二三)。何故か。先の述べたように、イエスが神にのろわれたような人々に近づき大切にしたからです。
歴史的事実に最も近いとされているマルコ福音書によるイエスの生涯の初めと終わりを見てみましょう。マルコ福音書におけるイエスの最初のメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」(一・十五)というものです。この福音書のすべてはイエスの言葉と行ないを通して神が人間に近づいたことを物語るものです。その言葉と行ないの結果イエスは旧約聖書の表面的な適用を受け、神にのろわれ、見捨てられ殺されたのです。マルコ福音書におけるイエスの最期の言葉は「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(十五・三四)です。とすれば、イエスにおいて神の近づきと神にの
ろわれることが一つのことになっているのです。
これは誰も考えつかないことです。しかしイエスの生涯を見ると結果的にそうなっているのです。ですから、神にのろわれていると思えるほどの人間のところまで神が近づいてきている。そんなあり得ないことがあることが「福音」ということの意味です。だから弟子たちはのちにこの教えを気が狂ったかのように伝えようとしたのです。どうして神はこんなことを許すのか、神も仏もないではないか、というほどの苦しみや不条理の中にこそ神が近づいているということ。

●受難のイエスへの信仰
後にキリストの十字架の死をどう解釈したかというと、「キリストは私たちの罪のために死なれた」と考えたことが古くから伝えられた信仰宣言を見ると分かります(一コリント十五・三)。これは神学的問題で私も十分消化していないのです。イエスは当時のユダヤ教の指導者たちのねたみや冷酷さ(これは同時に私たち人間の罪の本質ですが)によって「神にのろわれた者」として殺されました。しかし、イエスは自分を死に追いやるものたちをのろうことなく、その死を神の望みからのものとして受け入れていきましたから、その死は私たちのためのもの、つまり私たちの罪の許しのためだったのだと信じられてきたのです。私たち人間は嫉妬深く、冷酷であって、のろわれるべき者であるが、イエスが代わりにのろわれ、死んで下さった、と。

●人間の罪の本質
人間の罪とは、古今東西を問わず、他者の苦しみに関心を持たないこと、他人の幸いを妬むこと、自己中心の快楽追求、エゴイズム、自分の責任を問わないことなどです。
現代人の罪の意識の希薄さに警鐘を鳴らしている学者として精神病理学者の野田正彰先生がいらっしゃいます。戦争犯罪を例にあげていますが、少なからぬ日本人が、戦争で起こったこと、日本軍の残虐行為などは戦争のせいだ、仕方なくやってしまった、状況のせいだと言うことがありますが、それは大きな間違いではないか。自分も悪かったこと、罪を罪として認めることを避けている。罪ということは本来「我々」の問題ではなくて、「私」の問題です。自分の罪として認め、それを苦しみ、悲しむことが人間の尊厳であり、それによってのみ自分の罪になんらかのけじめをつけて、解放され、もう一度新しい人間に生まれ変わることができるかもしれません。自分の罪をなかったことにして新しい生まれ変わりなど決してできない。
フロイトは人の心的構造を超自我、自我(エゴ)、エス(本能)の三つに区分しました。そしてエゴは超自我とエスの間に挟まれ、その状況によって強く左右されていると考えました。
しかしキリスト教では、エゴは自分で罪を犯す力があると同時に、自分の罪を認め悔いる力もあると考えます。そしてそのことを認めることが人間をおとしめるのではなく反対に人間の偉大さを認めることです。

●たった一人の救いのために
ところでイエスが生涯を通して本当に他人を救い、天国に連れていった罪人は具体的にはたった一人でした。ルカ福音書によればイエスの左右に十字架につけられた二人の罪人の一人はイエスに向かって「おまえはキリスト(救い主)ではないか。自分と俺たちを救え」と言います。もう一人の罪人は、イエスがただの犯罪者とは違うと思ったのでしょう、「イエスさま、あなたの国の位に着くときには、この自分を思い出して下さい」と言いました。イエスは「まことにあなたに告げる。あなたはきょう、わたしとともに楽園にいる」と答えたと
あります(ルカ福音書二三・三九—四三)。たった一人だけです。それも札付きの罪人だったはずの一人です。あとは弟子や他の人を救うことにことごとく失敗しました。でも聖書を読む人は、その罪人が誰か他の罪人ではなくて、自分のことだということを知っているのではないかと思います。そうでないと福音書のこの個所には意味がないと思います。生涯悪いことをしてきて、人生の失敗ばかりしてきた人でも、最後の土壇場で救われるチャンスがあり、イエスは見捨てないのです。

●私の助けを必要としている神
悪に満ちみちている今の世界で、悪とは何か、善とは何かをもう一度真剣に考える必要があります。悪とは無垢なるもの、罪なきもの、貧しいもの、小さなものを傷つけ苦しめることです。苦しんでいる人を放っておくことです。そう考えると今でも十字架の受難はいたるところで続いているといえます。しかし、苦しんでいる人たちを助け、慰めようとする行為すなわち、善も消えてはいません。いたるところで芽生えています。
「最後の審判」についてのたとえ話がマタイ福音書(二五・三一—四六)にありますが、それによると、人生が最終的に成功する(救われる)か失敗するか(滅び)は、いま目の前にいる「空腹の人」「渇いている人」「旅人」「裸の人」「「牢にいる人」を助けたかどうかによる、と教えています。驚くべき事に、最後の審判を行う「王」は、彼ら困窮の人々の一人一人を「これらのわたしのきょうだいたち、しかも最も小さな者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ」と言うのです。審判の権威を持つ王が、実は人が見下げるような小さなひとりの困窮者である、という逆説。これは神理解の革命でした。
福音書が教える神は、このように、か弱く人間の助けを必要としている者なのです。
か弱い命、すなわち神が私の助けを必要としているのです。もっとも小さく、か弱いものにしてあげたことが神にしてあげたことなのです。身近にいるか弱きものに対してどうふるまったかということが、そのまま神に対してどうふるまったかと同じことです。それだけが最後の審判で裁かれる基準なのです。これはまさに過激な教えですが、イエスの教えは現代の冷たい社会への警鐘になっているのではないかと思います。
        (二〇〇三年七月十一日 講演会より 抄録作成 広報委員・生稲進)

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